9月15日関ケ原古戦場に行ってきました。Part 3(全3) 島津義弘陣跡~徳川家康最後陣地 [遺跡]
(続き)
笹尾山の次は島津義弘陣跡に向かいました。
関ケ原の戦いでは、島津家は西軍として参加しました。
西軍が敗色濃厚になると、何を思ったか島津義弘は後退するのではなく
逆に敵中に突撃していきました。有名な「島津の退き口」です。
これは、敗色濃厚になり敗れて生き恥をさらすぐらいなら
武士らしくここで散ろうという考えで突撃した結果、運よく
生き残ったというわけではなく、味方が総崩れで敵が前のめりに
なっているところに敢えて突撃することによって、活路を見出そう
という深い考えのもと行われたようです。
「島津の退き口」については、負けそうになってから、正面突破して
退却していった、ということを知っていた程度で、詳しくは知らなかったのですが
ここに来る直前にNHKの「歴史秘話ヒストリア」でもろに取り上げられていたので
今回寄ってみることにしました。今は何があるってわけでもないんですが。
標識です。
到着です。
記念碑です。
有名な「島津の退き口」について解説しています。
若い時ゲームで「信長の野望」やりましたが、島津家でよくやってました。
九州のはじっこで、背後を気にする必要がないうえ、能力の高い武将もけっこういたので
なかなかやりやすかったからです。
最後は、徳川家康最後陣地へ行きました。
都合上最後に立ち寄りましたが、関ヶ原町民俗資料館のすぐ前です。
戦いの直後、ここで首実検、慰霊などを行ったそうです。
歴史のIFはきりがないわけですが、もしも豊臣秀頼が出陣していたら
結果は変わったのではないか、と関ケ原の戦いを考えるときいつも思ってしまいます。
関ケ原の戦いが行われた9月15日というだけあって、駅に戻ったら
観光目的と思われる大勢の人がいました。あいにくの雨でしたが。
笹尾山の次は島津義弘陣跡に向かいました。
関ケ原の戦いでは、島津家は西軍として参加しました。
西軍が敗色濃厚になると、何を思ったか島津義弘は後退するのではなく
逆に敵中に突撃していきました。有名な「島津の退き口」です。
これは、敗色濃厚になり敗れて生き恥をさらすぐらいなら
武士らしくここで散ろうという考えで突撃した結果、運よく
生き残ったというわけではなく、味方が総崩れで敵が前のめりに
なっているところに敢えて突撃することによって、活路を見出そう
という深い考えのもと行われたようです。
「島津の退き口」については、負けそうになってから、正面突破して
退却していった、ということを知っていた程度で、詳しくは知らなかったのですが
ここに来る直前にNHKの「歴史秘話ヒストリア」でもろに取り上げられていたので
今回寄ってみることにしました。今は何があるってわけでもないんですが。
標識です。
到着です。
記念碑です。
有名な「島津の退き口」について解説しています。
若い時ゲームで「信長の野望」やりましたが、島津家でよくやってました。
九州のはじっこで、背後を気にする必要がないうえ、能力の高い武将もけっこういたので
なかなかやりやすかったからです。
最後は、徳川家康最後陣地へ行きました。
都合上最後に立ち寄りましたが、関ヶ原町民俗資料館のすぐ前です。
戦いの直後、ここで首実検、慰霊などを行ったそうです。
歴史のIFはきりがないわけですが、もしも豊臣秀頼が出陣していたら
結果は変わったのではないか、と関ケ原の戦いを考えるときいつも思ってしまいます。
関ケ原の戦いが行われた9月15日というだけあって、駅に戻ったら
観光目的と思われる大勢の人がいました。あいにくの雨でしたが。